今津のオヤジのつぶやき

『「明日の日本」判断を』(12月5日付け日経)に思う

2012年12月05日

 12月5日付け日経新聞の一面に『「明日の日本」判断を』総選挙の公示に当たり、論説委員長の芹川洋一氏の論説が掲載された。
 「なにかすっぽり抜け落ちているような気がしてならない」「原発をはじめ、異なる点を、ことさら強調して、ぶつかり合うのはしかたがない、だが、今、本当に問われているのはちょっと違うのではないか」との疑問から始まり、「もはや二流国家になりさがろうとしている日本、ぎりぎりのところで立て直すにはどうしたらいいのか。」「機能不全に陥った日本の政党政治を立て直すための選択は、この選挙からはじまる。」と締めくくっているが・・・。

 今度の選挙で本当に問われているものは何か?「二流国家」になりさがり、機能不全に陥っているこの日本を立て直すために何が必要か?答えを出すのは、12にも増えた政党ではない。ましてや、機能不全に陥らせた歴代政権党の政党ではない。
 機能不全に陥っている日本を立て直すことができるのは、他でもない国民自身ではないかと思う。もう誰かに、何かに依存するのは止め、自立するときではないだろうか。

 目前にある危機、原発事故と巨大地震の危機、地球温暖化と気候変動の危機、生物多様性の危機、食糧とエネルギーの危機、財政破綻とハイパーインフレの危機と、どれも生易しい危機ではない。まさに、瀬戸際の危機で、後がない所まで来てしまっているように思う。「事勿れ主義」や「お任せ」でやってきたツケが、山のように回ってきたのだとも思う。

 しかし、危機はチャンスでもあると思う。国民がこれまでの政治にキッパリとした意志を示す絶好のチャンスであり、日本を立て直すために重要な選択するチャンスでもあると思う。
 2割そこそこの得票で政権が取れてしまう今の選挙制度の下で、これまでのような「お任せ」と「うっぷん晴らし」で貴重な一票を投じるのではなく、迫りくる危機と正面から向き合い、子や孫、次世代のためにも、責任ある一票を投じてほしいと切に望みたい。




Posted by 陽ちゃんat 23:01Comments(0)この国の政治について

7月の家庭向け電力使用16%減の快挙!に乾杯!

2012年08月21日

 “原発を動かさなくてもよかった”、そうなのだ。脱原発の世論が、国民の脱原発への熱い思いが、熱い夏を乗り越え、電力使用を16%も抑えた。
 野田政権が国民の願いより、関電の利益を優先させ、大飯原発3,4号機の再稼働の強行したことへの明確な答えであり、圧倒的多数の国民の脱原発への意志表示でもあると心から思う。

 また、この間行われてきた、将来の原発比率―0%、15%、20~25%―の意見聴取会や各種公聴会で、「20~25%」にしたい、国と電力会社が、やらせなど、演出を画策したにもかかわらず、ことごとく「“0%”支持」「原発ノー」が多数を占めていたことからも、答えは明らかだと思う。
 勿論、国民の間には「原発はない方がいいが、電気が止まるのも困る」といった心情を持った人たちもたくさんいると思うが、しかし、原発事故を目の当たりにして、「なくせるものなら原発はない方がいい」と考える人たちの方が圧倒的多数であることは間違いない。

 何れにしても、「電力が不足するという」国と電力会社が言ってきた、原発再稼働の前提が崩れた今、大飯原発3,4号機の稼働を直ちに停止すべきである。

 そして、私たち庶民は一方で、省エネ、節電の取り組みをさらに進め、「原発の電気がなくても十分足りるよ」、だから「原発はいらない」と言えるように、 また、太陽光、小水力発電など、市民自らの手で、自然エネルギーによる電気の自給で、「原発はもう必要ない」ときっぱり言えるような暮らしに、みんなでシフトしていくことが、原発を止める一番の近道ではないかと心からそう思う。

 省エネ・節電・エネルギーの自給は「脱原発への大きな一歩」。
 とりあえず、家庭向け電力使用16%削減の快挙に“乾杯!”      



Posted by 陽ちゃんat 09:53Comments(0)原発問題

『今ここにある未来』サティシュ・クマール氏から学ぶ

2012年07月21日

 イギリスの思想家、サティシュ・クマール氏と出会った。と言っても、DVDの中での出会いである。DVDは2009年11月にクマール氏が日本に来日した際のもので、文化人類学者の辻信一氏との対話を中心に、女優の益戸育江さん、歌手の加藤登紀子さんとの対談を交えた記録である。

 タイトルは『今、ここにある未来』
このDVDに出会うまで、サティシュ・クマール氏の名前すら知らなかった。静かに、淀みなく、そして、明快に語る、クマール氏の一語一語に心からの共感を覚えるだけでなく、魂を揺り動かされる思いがした。

 サティシュ・クマール氏は1936年インドに生まれ、9歳のとき出家、ジャイナ教の修行僧になり、ホリステックとエコロジカルを学ぶ中、マハトマ・ガンジーの非暴力の思想の影響を受ける。
 その後、1961年に核廃絶を訴え投獄された、ノーベル文学賞受賞者のバートランド・ラッセル氏のことをニュースで知り、地球上から核兵器を廃絶し、世界平和のため行動することを決意、当時、核兵器を保有していた、ロシア、フランス、イギリス、アメリカの4カ国に向けて、核兵器の廃絶を訴えるメッセージを届けるために、もう一人の仲間と二人で、一銭も持たず、徒歩で巡礼の旅に出たという。その距離1万4000キロ。当時18歳であった。

 1954年核廃絶の巡礼の旅に出た18歳の時に、マハトマ・ガンジーの非暴力思想に魂を揺り動かされ、自ら僧衣を脱ぎ、還俗、自然と社会と利己の相関性、全体性を学ぶことを通して「Soilソイル(土)Soulソウル(心)Societyソサエティ(社会)」論へと発展させたという。

 「今、ここにある未来」に込められた、サティシュ・クマール氏からのメッセージをできるかぎり忠実に紹介したいと思う。

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――私にインスピレーション与えてくれる日本。
 その日本の皆さんには、もっと自信をもっていただきたい。皆さんは、よりよい世界を創りだすことができるのだから。
その素晴らしい文化と伝統を祝福し、その基盤の上に、新たな運動をつくるのです。エコロジカルでホリスティック(*)な、新しい世界を創る運動を。
 その力が日本にはすでにある。よそを探す必要はありません。

(*) ホリスティック:局所的な現象や結果への対症療法的な発想ではなく、ものごとの根本的な原因や、その現状を引き起こしているシステム全体を大きな構図で捉える考え方。

3つの“S”・Soil(土)Soul(心)Society(社会) 
 エコロジーとは何か。土と心と社会という3つの言葉で説明できます。一体であるはずのこの3つが、バラバラだとどうなるでしょう。
 例えば、社会運動家たちはこう考えるかもしれない。「環境どころじゃない。社会にまず正義を実現しなければ」と。
また、環境運動家たちはこう言うかもしれない。「木や森、山に川、海や動物たちあっての人間だ。人間だけの平和には興味がない」と。
 さらに、自己啓発やスピリチュアルな世界、宗教などに救いを求める人たちは言うかもしれない。「地球は放っておいても大丈夫。必要なのは自己の成長と発展とだけだ。自分が幸せなら、おのずと平和はついてくる」と。

 新しい世界を目指す運動が、バラバラでは困るでしょう。それらを結びつける必要があります。なぜなら、これら3つの運動はどれも、ホリスティックで持続可能な世界を目指しているのだから。同様に、土と心と社会は、一体で切り離すことができません。

Soil
 ソイル(土)とは、土、大地、環境やエコロジーのことです。私たちは土から生まれ、土に還る存在です。私たちの食べものも、衣服も土から来ます。家の建材も土から来ます。つまり、ソイルは、自然界全体を指す言葉なのです。ならば、土を敬い、祝福しょうではありませんか。土が神聖だからこそ命は神聖なのです。

 土の上で働く農民、農耕そのものも神聖です。大地への畏敬なしに、この世の平和はありえない。私たち人間には、土、地球、自然との平和が必要です。
 ところが今、私たちは自然に戦争をしかけている。大地を毒し、動物たちをオリに押し込め、海の魚を乱獲し、川を汚染し、豊かな森を伐り倒している。これはまさに自然に対する戦争です。
 必要なのは、自然界との和平。だからこそ、まずソイル(土)なのです。

Sou
 土を大切にすることは、自分を大切にすること、自分を大切にできればこそ、幸せで、健やかで、しなやかな体と心と魂があればこそ、地球を大切にすることもできるのです。
 心や体を病み、不幸せで、自殺を考えているような人が、どうして他人を、家族やコミュニティを、地球を大切にできるでしょう。
 自分が健やかで、幸せで、満ち足りていることも必要です。だから、自己実現と自己啓発は大切です。

 詩、音楽、アート、工芸などの文化活動、畑仕事、瞑想、ヨガ・・・、どんな活動でもいい、健やかでしあわせな自分をつくるのです。それが人々のため、地球のためなのです。これが、3つの真ん中にソウル(心)を置いた理由です。

Society
 そして、ソサエティ(社会)。人々も大切にしなければなりません。現在、世界人口の6分の1、10億人以上の人々が飢えに苦しんでいる。なんとひどい社会経済システムを、私たちはつくってしまったのでしょう。

 世界は不正に満ちています。飢えている人々がいる一方で、食べ物を捨てている人たちがいる。世界中で、40~50%の食べ物が無駄にされている。これが、私たちの社会の仕組みなのです。
 東京やニューヨークやロンドンのレストランでは、毎晩大量の食料が廃棄されている。スーパーマーケットでも、賞味期限切れの食品が何トンと捨てられています。なんともったいない。

 私たちがたべものを無駄にする分、世界は飢える、だから、無駄のない、フェアで平等な、分配の社会システムが必要です。誰ひとり、飢えることのないように、これが第3の柱、ソサエティ(社会)です。

 「土・心・社会」が一体となって、私たちの運動はホリスティックなものとなるのです。
マハトマ・ガンジーは言った。「世界の変化を望むなら、自分がまず変わりなさい」と。自ら手本を示すこと、そして、あなたの想いを伝えるのです。

「豊かさ」とは
 地球温暖化の本当の原因は、私たちの考え方にあります。「機械が何でもやってくれる」という考え方です。その結果が、深刻なジレンマです。

 一方では、進歩した科学技術のおかげで、「何もしなくていい」ことになった。すべては電気と機械が自動的にやってくれるから。
 他方では「何もしなくていい」から失業が増える。職がないから、収入もない、お金なしに暮らしていけない。

 そこで「手」のことを思い出しましょう。この手は、美しいものをつくるために、神が与えてくださったのです。食べ物、家、美しい家具や服、陶器をつくる。手とは奇跡です。
 手は、ふつうの粘土を美しい陶器に変え、ただの木材と藁をこんな素晴らしい家に変える。人間の想像力と創造性は、手を使うことによってこそ発揮されます。機械が人間の手を不要にするような未来は、幸せでも持続可能でもありません。
 今では、この手の使い道と言えばコンピューターや携帯のキーを押すことくらい、他に何か?トイレの蓋を上げることもしないのに?私たちの手はもはや「用なし」です。

 インドには、『バガヴァッド・ギーター』という古代の偉大な書があります。バガヴァット・ギーターの主なテーマは、「行為の結果にではなく、行為そのものに目を向けよ」ということです。結果ではなく、プロセスだけが現実なのだ、と。パンをつくるときも、パンという結果ではなく、プロセスが大事なのです。

 私の母は聡明な人でしたが、折にふれこう言ったものです。「神はたっぷり時間をつくってくださった。だから時間は不足することはない。枯れることのない泉のように、時間はここにやって来るの」と。
 ところが、近代的な産業社会では、無限なものさえ「足りない」とされ、ふんだんにあるはずの時間や空間も、「希少」なものになる。

 また、産業社会のもうひとつの問題は、なんでも「計量できる」という考えです。例えば東京という場所の空間を、1平米ごとに区切って、値段をつける。そして、「土地が希少だから、こんなに高価になる」というわけです。
 
 同様に、1時間いくらと値をつける。時間が「足りない」という理由で。計量することで「希少性」をつくり出したのです。時間や空間、そして食べもの、着るもの、すべてが「足りない」とされた。「希少性」は近代社会のフィクションであって、実在するもではない。

 自然は豊かです。あなたがりんごの小さな種を一粒まけば、それが木となり無数のりんごがなります。そこに「希少性」などありません。りんごがいくつあるかと数え、計算することで、はじめて「希少性」が現れます。食べることに「希少性」はない。でも売るとなると「希少性」が現れる。

 「希少性」は「不安」ともつながっています。あなたが「今、ここ」で、腹を満たすだけのものを食べ、満ち足りた思いでいる限り、「希少性」などとは無縁です。
 ところが、明日に、未来に不安を感じていると、貯えたり、所有することが必要になる。つまり「不安」が「希少性」を生みだすのです。
 危機の時代だと言われています。生態系の危機、地球温暖化、エネルギーの危機。これら全ての「危機」は、しかし、好機でもあります。こういった問題について話し合うよい機会であり、現在のシステムをデザインし直すための、絶好の機会ともなりえます。本当の「豊かさ」とは何かを定義し直すのです。

 「豊かさ」とは、コミュニティや家族であり、人間の手であり、大地、自然、川や森なのです。お金はただの尺度で、取引の手段にすぎない。それを「豊かさ」だと、私たちは勘違いしたのです。自然のためにお金を使うかわりに、自然を犠牲にしてお金を稼ぐ。つまり、お金が「豊かさ」になってしまった。それが問題なのです。
 本当の「豊かさ」は自然です。それを私たちは所有しようとする。でも、自然は所有できない。私たちは、その一部なのですから。

「遊ぶ」こと、「仕事する」こと
 仕事と遊びは、実は表裏一体です。心のこもった仕事、想像力や愛情に満ちた仕事、創造的な手仕事。それらは遊びと同様、楽しいものです。
 楽しめないなら、しないことです。必要な仕事なら、それを楽しむことを学びましょう。

 庭仕事、畑仕事、ハイキングなどは、楽しく、よい運動にもなる。そこでは仕事と遊びは一体です。私にとって、仕事は遊びで、遊びは仕事。だから楽しいのです。
 スポーツも職業となると、遊びでなくなる。でも私は、遊びと仕事を融合したい。誰もが自分の仕事に、楽しみや喜びを見いだす文化をつりたいのです。
 誰もが必要な仕事だけをして、幸せな毎日を過ごせるはずです。でも、現実には、みんな企業や工場、官僚制の奴隷みたいではありませんか。これは、5歳から20歳まで、教育で手なづけられ、洗脳された結果です。

 メディアも私たちを洗脳します。生きるには、雇用され、上司の言うままに不必要なことをしなければならないと、そうすれば、円やドルの札束がもらえる・・・・。
 でも、考えてみてください。いったい誰の人生でしょうか?人生の喜び、楽しさ、共に生きる幸せ・・・・。それを自分が選ばずに、誰が選ぶのでしょう。
 会社の奴隷として不必要な労働をしなくてもいい。勇気をもって、自分の人生を選びましょう。自由で、充実した愉しい人生を目指すのです。創造的で、想像力に満ちた、気高く、芸術的な人生を。

 必要もない仕事を強要したり、されたりすることが、私は許せません。それは人間の奴隷化、人間性の冒とくです。

 私たちはみなアーチストです。単なる会社員でも、店員でも、役人でもない、芸術家なのです。本来、すべての仕事はアートです。それが、人間の生き方というものでしょう。

 もし私たちがいかに食べ、座り、眠り、歩くかを知ってさえいれば、現代世界の諸問題は解決済みだ、と私は考えています。私たちの小さな行動が、世界に絶大な影響を与えうるのです。

「食べる」こと
 いつもこう訊かれます。地球温暖化、気候変動、貧困、不正・・・、どれも問題が大きすぎて、どこから始めたらいいかわからない、と。
 確かに危機だらけですね。私は「食べ物から始めよう」と答えます。ちゃんと食べることが、世界の大問題への取り組みなのです。

 「よき食生活」とは、地球への負荷を減らすことを意味します。肉をはじめ、多くの食品が世界の隅々に運ばれ、大変な環境負荷となっている。排出される二酸化炭素の18%が、食産業に由来している。食べ物を生産し、貯蔵、輸送し、冷蔵するために、何十億バレルという石油を燃やします。

 このように現代の食べ物は、環境にも有害ですが、私たちの身体をも蝕んでいます。食生活が肥満やガンを急増させています。社会全体が食べ物のせいで非常に不健全です。おまけに地球温暖化です。さらに、浪費的で不公平な社会の仕組みが、貧困を生み出す。

 だから、世界の問題を解決する第一歩は、あなたの今日の食事からです。食卓に何がのっているか、どんな食べ物を口にするか、です。
 地域の、天然の、オーガニックのものを選ぶ、そうすれば、あなたは健康で幸せになり、社会に正義が、生態系にバランスがもどり、地球温暖化もなくなるでしょう。そして何より、おいしい!だからうれしい。

「眠る」こと
 その昔、ペルシアの皇帝には、スーフィー教の導師がいました。ある日、皇帝は導師に助言を求めました。「私にできる最善の行動とはなにか?」。導師はこう答えた。「陛下、それはできる限り長く眠ることです」。
 皇帝は言った。「なんだって?私に眠る時間などない。軍隊や警察を率い、法律をつくり、裁判を行い・・・」。
 導師は言った。「陛下、あなたが長く眠るほど、圧政は減るでしょう」。

 現在の世界ではどうでしょう。私たちはみな皇帝のような暮らしぶりですね。起きている間は、車や飛行機に乗り、コンピューターを使い、テレビを見る。私たちは年がら年中電気を消費している。皇帝が眠ると圧政が減るように、私たちが眠ればその分地球は助かります。日が暮れたら休む、また日が出るまでよく眠ることです。

 現実はどうでしょう。24時間、1週間休みなく、買い物や仕事や旅行は続き、飛行機が飛び、電車や車が走る。社会が眠ることはありません。学生や生徒は授業中、居眠りしている。それは、夜よく寝ていないからです。電車の中でも居眠りしている人たちが多い。これも寝不足だからです。夜、テレビやEメールに忙しいからです。もっと長く眠ることです。そうすれば、すっきり目覚めます。

 よく寝れば、勉強、ガーデニング、料理、読書・・・、何をしても、ずっとうまくいくでしょう。心と頭がすっきりして、身体も活力にあふれている。夜ぐっすり眠ることが大切なのです。
 よく眠りなさい。必要なだけ。十分に休息し、活動的で創造的にいきてください。

「歩く」こと
 現代人のもうひとつの問題は、まるで足がないかのように生きていること。どこへ行くにも、バスがあり、タクシーがあり、電車や飛行機や車があります。それらが、人間本来の動く能力を奪っている。
 心と体のリフレッシュのために、私は歩きます。毎日少なくとも1時間。歩くことは自然の健康法です。自然の中を歩くことなしに、体や心、魂の健康はありえません。なでなら、歩くことで、私たちは大地に触れ、地球を感じるのです。

 地球から、木々から、蝶や蜂から、知恵を得る。歩くとは、自然の中に身を置き、自然とつながること。車や電車の中で、私たちは自然から切り離されています。花を見ることもなく、木々にも気づかない。エアコンの人工的な空気を吸わされている。歩くとは、直に経験すること。その体験が英知をもたらすのです。

 ニーチェの言葉に「歩かずに得られた哲学を信用するな」。
 実際、歩かずによい哲学は得られない。歩くことで思想は試され、生み出される。哲学は歩いて得るものです。現代によい哲学がないとすれば、それは私たちが歩かないからです。悪い哲学がはびこっているのは、哲学者がもう歩かないからです。

 ゆっくりと、時にはあてもなく歩く。それが巡礼です。
 巡礼とは目的地に向かうものではありません。ただただ歩くことです。聖なる地球の上を歩く。だからその足もまた神聖です。巡礼者はこう言うでしょう。「地球よ、私の足を支えてくれてありがとう。あなたの身体を踏みつけるのをお許しください。感謝します」。

 感謝の心、それが巡礼の心です。巡礼者は行く先々で、その場所に敬意を抱くでしょう。場所を自分に合わせるのではなく、自分をその場に合わせる。その場所を壊すことのないよう、軽々と歩く。巡礼とはその軽々とした歩みです。
 巡礼者は大地の恵みを浪費しない。すべては神聖な贈り物ですから。巡礼とは人生そのものなのです。地球と自然への畏敬の念をもって、本当に必要なものだけをいただき、無駄なく、欲張らず暮らしましょう。

怒りと変革
 怒りの種(たね)は誰の中にもあります。みんなが、愛の種をもっているように、怒りの種とともに愛の種、慈悲の種や寛容の種も持っているのが人間です。知恵とは、その愛と慈悲と寛容の種を育て、怒りの種を育てないことです。

 人間の心は畑のようなものです。この畑には、花や果実や、野菜やハーブだけでなく、トゲや毒を持ったものもあります。よい庭師は、トゲや毒のあるものに腹を立てたりせず、ただそれらを抜き取って堆肥にするでしょう。
 同様に、怒りもよい堆肥として、ハーブや花や果実や野菜を育てる。人生にも、とげとげしい怒りがわき起こることがあります。そんな時、賢い人なら、その怒りを堆肥にして、愛と慈悲と寛容の種を育てるでしょう。

 怒りで我を通そうとし、苦しむのは誰でしょう?自分自身です。怒る人自身が、一番苦しむのです。でも、その怒りを悪いシステムを変えるためにとっておくこともできます。

 社会は大勢の人でできています。私たちもそのシステムの一部です。システムの恩恵に預かることで、私たちはその片棒を担いでいる。怒りは個人に向けるべきではありません。この新しい考え方を広めましょう。

 古い格言があります。「罪を憎んで人を憎まず」。怒りをシステムの個々の人ではなく、システムそのものに向けるのです。
個人ではなくシステム。これに気付くこと。それが求められているのです。世間にただ従う代わりに、このシステムがいかにしてできたかを理解し、自分たちも、多かれ少なかれ、その一部であることを、自覚することです。

 その上で、まず自分自身の暮らしを変え、システムから抜け出すよう、人々にも働きかけましょう。

争いと平和
 私たちは、争いの時代に生きています。世界には数多くの争いが絶えません。そこで、「自分たちに何ができるか?」と問わなければなりません。アフガニスタン、イラクなど様々な紛争を前に、いったい何ができるのか?

 まず、平和への思いを発信することだけは誰にでもできます。前向きで思いやりに満ちた気持ちを、戦争の当事者に示しながら、その一方で、自分自身が平和を体現し始めるのです。
 なぜなら、小さい個人的な争いが、実は世界の大きな争いとつながっているからです。例えば「お先にどうぞ」「いやあなたこそ」とゆずり合う人々の間に争いは起らない。どちらが先に行くかは、大した問題ではありません。

 ゆずり合えば、双方が納得できる合意に、やがてたどり着く。「エゴ」を超えたゆずり合いの精神を育てるのです。それが関係性を尊重する「エコ」の心であり、巡礼者の心です。

 個人の「エゴ」の対立の代わりに、「共に生きる」。そのために、まずは「お先にどうぞ」と、相手の話を聞くことです。「エゴ」から「エコ」へ。それが争いから平和への道です。

――すべてのものはつながっています。みな、同じ宇宙、ひとつの魂に源をもっているのだから。
 歌をつくる時、まず直感が生まれる。それが、魂(ソウル)の働きです。そこに感情が加わる。心の働きです。つまり、大もとに魂があって、心、頭、言葉へと進む。すべての根っこにあるのが魂。初めからある「可能性」、それが魂です。

幸せ、悲しみ、そして歌
 加藤登紀子:幸せとはなんでしょう?

 幸せ! 幸せとは、満ち足りていること。「これで十分」と感じること。まだ足りない、もっと欲しい、という思いから解き放たれて、「これでもう十分」という思いに、満たされていること。

加藤:幸せと悲しみは、どういう関係にあるのでしょう?

 悲しみも不幸せも、所有という考えから生じるのではないでしょうか。「私のもの」を失うから、悲しい。あなたは愛する人を亡くされた。「私の夫」と考えれば、それは悲しみです。でも、「夫はいつも私と共にいる」と感じられたら、どうでしょう?

加藤:時々、私は深い悲しみで、胸がいっぱいになります。悲しみでいっぱいであっても、不幸せではない。むしろ、美しく、愛おしい感情なのです。

 それは、悲しみが愛と慈悲と昇華して、美しいものとなったのです。でも、「私のもの」への執着がある限り、悲しみは悲しみのままです。

加藤:人々の悲しみあるいは苦しみ、いろんな生きる大変さを、私は救ってあげることはできない。彼らを支えるために私に   できること、それが音楽なのです。

 そう、それこそが本当の音楽です。なんと素晴らしい。

加藤:私は解決の答えを皆に伝えることはできないし、皆さんが苦しんでいる時に助けることはできない。けれども、大切な    ことは、どんな悲しみの中にいて、どんな苦しみの中にいても、彼らが自分の中に、輝くポテンシャルがあるように、そ    れを祈って、念じて歌っています。それだけをできればいいなあと思って歌っています。

 素晴らしい。あなたの音楽は、きっと素敵な贈り物になる。そして苦しむ人々の傷を癒すにちがいない。
 歌はヒーリングです。あなたの歌はまさにそれです。

木を植える
 仏教を広めたことで知られる古代インドのアシュカ王は、決まりをつくり、それを刻んだ石柱を国中に設置して、国民に知らせました。それは、全国民に5本の木を植えることを義務づけるという決まりでした。それをバンチャヴァティ、「5本の木からなる林」といいます。

 1本は食べものになるマンゴーやりんごなどの果樹、1本はシッソノキなど木材となる木、1本はニームのような薬効のある木、1本は椿やジャスミンなど花を咲かせる木、最後の1本は、燃料となる木です。

 このように王は、国民に5本の木を植え、大切に育てることを定めました。植えた木を自分のために伐ってはならない。未来の世代に残すためです。王は先々の世代のことを考えていたのです。

 地球は「自分たちのもの」ではなく、未来からの「借りもの」だというわけです。地球を、借りた時より、よい状態にして返す。それが責任だという考えです。5本の木を植え育てることは、未来世代への何よりの贈り物だったのです。

 東京銀座はどうでしょう。「素晴らしき日本」はそこにはありません。銀座を歩く時、自然とのつながりは全く感じられません。そこには木がない。どこかで伐ってきたクリスマスツリーが、コンクリートジャングルの中にあるだけです。銀座の真ん中に並木をつくるべきです。車を減らし、木を増やすのです。

 大気汚染はひどいものです。車は大量の温室効果ガスを吐き出し、地球温暖化や気候変動の原因になっている。銀座に木が立ち並んでいたなら、車からの二酸化炭素を吸収し、私たちの心に平穏と知恵と慰めを与えてくれるでしょう。

 私たちを悩ませている多くの身体的・精神的、そしてスピリチュアルな病は、自然界との断絶によるものです。自然がなくても生きていけるという幻想を、私たちは抱いています。木はいらない。山も、川も、大地も動物たちもいらない、と。

 必要なのは、ビル、ビル、ビル、車、車、車、コンクリートジャングル。必要もない灯りをともし、電気を浪費して威張っている。どうだ、大したもんだろ、と威張っている。「傲慢のかたまり」、それが東京であり、その象徴が銀座です。

 マンハッタンもオックスフォード通りも肥大化したエゴと強欲さの表現です。「見よ、我らが偉業を!」自然を征服し、支配し、破壊する、巨大都市はそれを誇っているのです。

都市をリデザインする
 東京をデザインし直す必要があると思います。銀座、マンハッタン、オックスフォード通りなど、世界中の繁華街を、自然と文化をつなぎ直すのです。
 自然と文化は敵対するものではなく、親しく寄り添うこともできる。木に囲われているべきです。

 全てのオフィスビルを寺院や神社のようにデザインしたらどうでしょう?美しい門をくぐると、木立ちがあり、池があって、その奥にオフィスがある。
 働くことが神聖な営みなら、1日に多くの時間を過ごす仕事場は、楽しく、幸せで、プレッシャーもなく、リラックスできる場所であるべきです。

 スピード、スピード、スピード。速さこそ、近代文明の呪いです。私たちは、憑かれたように動き回ります。「速く、もっと速く」と。私が見た銀座とは、スピード、ファストライフ、プレッシャー、ストレス。人間が求めているのはそれですか? いいえ、喜びあふれる場です。

 人の手でつくられたものは、人の手で変えることができます。私たちが都市をつくり直せばいいのです。自然と文化が躍るような、地球と文明が、木々と建物が、池とオフィスが、手をとりあって躍るような美しい町に。
 自然はあっち、都市はこっちと、隔離する必要はありません。自然と文化を隔てるなんて、黒人を差別し、白人から分離するように愚かなことです。この差別を終わらせ、暮らしの中に自然を取り戻さねばなりません。
東京の中でさえ、菜園で食べ物を育てられる。野菜も、柿やみかんなどの果物も育てられる。都市でりんごを育ててはいけませんか? 美しい庭園をつくり、人々が集い、座り、瞑想できる場にする。銀座をリデザインしていただきたいのです。

 今のような大変化の時代は、若い世代のプランナーたちにとって、大都市をリデザインする絶好の機会です。新しい日本人はきっと、地球温暖化や気候変動も起こさない、自然と人間が幸せに共存できるような都市を、つくってくれるでしょう。

パワーとフォース
 ともに「力」と訳されますが、「パワー」は「フォース」と違って、内なる力です。例えば、種子は木となる潜在的な力をもっている。それがパワーです。人間はブッタやガンジーのように、偉大な人になれるパワーをもっている。この内なる力がパワーであり、真の強さです。

 一方、フォースとは外なる力です。例えば、軍隊や警察は、銃,戦車、核兵器、監獄などの強制力をもちます。人々を投獄し、拷問する暴力もまた外なる力です。規則、法律、軍隊、武器、政府などによって、外から与えられる力――それがフォースです。

 お金と言うフォースによって、それが他人に権力をふるうこともできる。フォースが他人への強制力であるのに対し、パワーは自分の内に働く力です。

 イエス・キリストはパワーにあふれる偉大な人物でした。しかし彼は「弱き者が世界を受け継ぐ」と言っています。この「弱き者」とは、フォースをもたない人のことです。弱き者は、腕力もずる賢さもなく、花のように優しい。花はしかし、パワーにあふれている。
 花はパワーでひとを魅了します。その香り、やわらかさ、美しい色彩で。また、自らを果実へと変えるパワーもあります。この花の力は、フォースとしての強さではありません。

 パワーは、柔和で、穏やかで、目立たず、控えめです。花はなんと謙虚でしょう。押しつけがましいところがありません。
真の力とはこのように、控えめで優しいものなのです。
 例えば、流れ落ちる水のように、水はパワーにあふれていますが、いつも下へ向かって流れて行く。決して上に向かわす、下に向かう。それが水の謙虚さです。
 土はとてもパワフルですが、謙虚です。英語の「土」と「謙虚」という言葉は、同じ語源から来ているんです。土はいつも下にある。でも、食べ物を育て、保水する力を秘めている。建物を支え、私たちに歩く場所を与えてくれます。

 それほど強力なのに、しかし、土は何も強要しない。「私の上を歩け!」と土は言わない。「私を飲め!」と水は言わない。「私を嗅げ!」と花は言わない。
 威張ることなく、ただそこに「ある」。それが「いる」力であり、「ある」力です。

「いる」と「する」
 パワーは「いる」力、フォースとは「する」力、これは大きな違いです。
 「いる」は、非暴力的でエコロジカルなあり方です。
 「する」は、強引で、攻撃的で、押しつけがましく、ずる賢い。「あれができる」「これがしたい」と、「する」は謙虚さに欠けている。
 でも、「いる」は控えめです。「いる」は、土や水や空気、花や木のように自然体です。

 行動とは本来、パワーが自然に外に現れたもので、フォースとしての「する」力とは違います。自然に言葉が流れ出る、足が向くままに歩く。これらは「いる」力の発露です。自らを「する、する、する」へと駆り立てれば、疲れ果てるだけです。

 英語で人間を「ヒューマン・ビ-イング(いる存在)」と言うじゃありませんか。

   We are human beings,not human doings

   人間はヒューマン・ドウ―イング(する存在)ではなく、
     ヒューマン・ビーイング(いる存在)です。



Posted by 陽ちゃんat 17:16Comments(5)FEC自給圏

原発再稼働と消費増税法案のデタラメさに思う

2012年07月20日

        原発再稼働のデタラメ

 18日、大飯原発4号機が、今月1日の3号機に続いて、多くの国民の脱原発への思いを踏みにじるかのように、再稼働を始めた。
 モラル・ハザード(倫理の崩壊)を通り越して、人間性の喪失と言うべき愚行である。野田内閣と関西電力に対して、心の奥底からの憤りを覚える。

 「原発の安全性」に対する彼らのウソには底がないかのようである。先月、ここ高島で開催された「ガレキ」問題の勉強会で話された講師が「今度原発事故があればこの国は終わる、それくらいのレベルの話。そのことについて、堂々とウソをつく人が国のトップいる。本当に恐ろしい。ウソをついておいて、事故が起こっても一切責任をとらない、こんなひどい国はどこにもない」と。

 19日の「天声人語」にも「原発をめぐる無責任が、また一つ明るみに出た。」と。北陸電力・志賀原発(石川県)の直下に「典型的な活断層」があり、再稼働した大飯原発の直下にも活断層があるという。これは、新たに分かったことではなく、以前から専門家が指摘してきたことだ。北陸電力も関西電力も、原発を推進してきた歴代の政権も百も承知だったはずで、問題はそれを承知で、原発を54基も造ってきたことだ。ある時はデータをー地質調査のサンプルを差し替える(九電・川内原発)などー隠す、ねつ造する。
 「ごまかしか見て見ぬふりか、政・官・業のなれ合いの泥沼は、底知れず深い」そして、「事があれば制御不能になるシステムを、人知の及ばぬ地震にさらす。これは一種のギャンブルだろう。福島に懲りず国土を賭け金にするのは、愚行である。」と断じた。

 「原発を再稼働しなければ停電する」「安全基準は概ね適合」などと、ウソとごまかしで国民を欺き、ごく近い将来間違いなく起るとされる巨大地震で、原発事故が起る確率は極めて高いと、多くの科学者や専門家が指摘する中、大飯原発を皮切りに、何が何でも再稼働させようとする、野田政権と関電をはじめ電力会社の無責任極まりない愚行は、もはや犯罪行為と言う他ない。

       消費増税法案のデタラメ

 一方、国会を延長してまで、衆議院で可決し、参議院で審議中の「消費増税法案」についても、「社会保障と税の一体改革」「財政再建」のため「政治生命をかけて何が何ででも通す」(野田首相)といい、「消費増税分は、すべて、年金など社会保障の財源に充てる」(安住財務大臣)などと、テレビの前で平然と言い放っていたが、これも、全くのデタラメで、政府与党民主党と自民党、公明党との間で交わされた、「消費増税3党合意」の本当の狙いがどこにあるかが、次々明らかになってきた。

 18日の参議院の特別委員会で、自民党は「消費増税で財政にゆとりができた分公共事業に回すよう求め」、政府は「重点配分する」と応じたのだ。
 このやり取りには根拠がある。民主、自民、公明の3党合意で、消費増税法案に書き加えられた「付則18条2項」である。
 そこに記されてある内容は、消費増税で税収がふえて「財政による機動的な対応が可能になる中で、」「成長戦略や、防災、減災」など、公共事業にどんどんお金を使え、といっているのだ。

 自民党はすでに、防災対策中心に公共事業で10年間に200兆円規模の投資を目指す「国土強靭化基本法案」なる大型公共事業復活法案を国会に提出している。公明党も負けじと、10年間で100兆円規模の公共事業を進める「防災、減災ニュ-ディール推進基本法案」の提出を準備しているという。

 これに対して、“待っていました”とばかりに、八ツ場ダム建設の再開、東京外郭環状道路の予算付け、凍結していた北海道、北陸、九州の整備新幹線未着工区間3ルートの建設を決定するなど、総事業費42兆円にのぼる超大型の公共事業がすでに動き出しているのだ。

 「税と社会保障の一体改革」だの「財政再建」だの「消費増税分は全額社会保障財源化する」だの、言ってきたことが、まったくのデタラメで、実は、膨大な借金財政をさらに膨らませ悪化させるだけの、大型公共事業を復活させることにあったということだ。  

 まだ決まってもいない消費増税法案、仮に法案が成立したとしても実施は2014年度以降であり、税収増も“捕らぬ狸の皮算用”でしかない。むしろ、景気は一層悪化し、国民の消費は減り、税収増は見込めないというのが、専門家の大方の見方だ。まだ成立もしていない消費増税法に対して、かつ、実施しても税収増の見込みもない消費増税法案に、この大判ぶるまい!!

 本日(20日)の国会答弁で安住財務大臣は、「消費税を10%にしても財政再建は難しい、さらなる消費税の引き上げが必要」などと、ぬけぬけと言ってのけたそうだ。開いた口が塞がらないとはこのことで、どこまでも国民を愚弄する態度に心から憤りを覚える。

 このままでは、取り返しのつかない事態を招いてしまうことになるのではないかと心から憂う。
 お任せではこの国の政治は絶対に変わらないと思う。

 先日(16日)の東京代々木公園で開かれた脱原発の集会に17万人もの人たちが集まった。今のデタラメな政治を変えるためには、この輪を、さらに、10倍、20倍、いや100倍にも広げていく必要があると思う。

 そして、もう一方で、私たち一人ひとりが、「原発を必要としない」暮らしに切り替えていくこと。エネルギーを自給する暮らしに切り替えていくことが大切ではないかと思う。原発そして、化石燃料依存の暮らしから抜け出すためには、最小限の電気は、自ら自給するくらいの覚悟が必要ではないかと心からそう思う。



Posted by 陽ちゃんat 22:59Comments(0)この国の政治について

我が家の涸れたと思った「井戸」から水が出た!!

2012年06月02日

 涸れてしまったと思っていた我が家の「井戸」から、再び水・地下水が出ました。感謝、感激です!!
 5年前に引っ越してきた時から井戸があることは分かっていたので、引っ越し後、さっそく、敷地内にある畑で使いはじめたところ、2週間ほどで出なくなり、翌年もやはり1週間ほどで出なくなってしまい、以後、2年間はまったく使わずにいたのです。これはきっと地下水が涸れてしまったのだと半ば諦めていました。

 ところが、4、5日前、同じ水脈と思われるお隣が、やはり水が出ないので業者に依頼して調べてもらったところ、水はあるのに、肝心の水を吸い上げる立て菅の先端部分に、枯れ葉などが詰まっていたことが分かり、それを取り除いたら水が出たとのこと。
 お隣の井戸と我が家の井戸との距離は30mほどで、しかも井戸の深さも同じ8メートル。もし、水脈も同じならば我が家の井戸も出るはずと思い、さっそく、揚水ポンプの設置してある地下の蓋を2年ぶりに開け、いわゆる呼び水をして電気のスイッチを入れたところ、待てど暮らせど、水が出てこない、それもそのはず、ポンプの唸る音はかすかにしているが、肝心のポンプが回っていないでないの!

 知り合いの業者に連絡し見てもらったところ、やはり、ポンプが錆ついて全く機能していないことが判明。
 ところで、うちの井戸には肝心の水はあるの?調べたところ、「水はある」ことを確認。ポンプさえ正常に動けば水は出る!とのこと、さっそく、修理することに。
 しかし、修理に取り掛かるも、モーターの軸を始め、接続部分のすべてがガッツリ錆ついてビクともしない、悪戦苦闘している業者を見ていて、これは新品に交換かなと覚悟を決め、「交換して下さい」と。
 ところが、この言葉に、俄然業者さんの職人魂に火がついたのか、「いや、原因さえ分かれば直せるはず」と、3日がかりで、ポンプを直し、揚水用のパイプ菅から各接続部分に空気の漏れる箇所はないか点検し尽くし、見事水を出るようにしてくれました。これぞプロの仕事!ということでしょうか。

 プロの職人さんに「有難うございます、大事に少しずつ使わせてもらいます」の言葉に、「いや、地下水は使う方がより出るようになります。使うと新たな道ができ、水を呼び込んでくれるので、どんどん使ってください」と。
 そうなんです、使い過ぎると一端は涸れることはありますが、逆に、使わないと帯水層を痩せさせることになるので、再び水を溜めるためには、むしろ使い切るくらいの方がよいそうです。

 念願の“自然の水”を確保できた喜びに今夫婦で浸っています。



Posted by 陽ちゃんat 23:02Comments(2)田舎暮らし